中年引きこもりの孤独死8050
思う事の結論を先に言う。命を救うのではなく魂を救え。
私は介護職でまさに今そのような状況の勉強をしている。曰く「利用者を受け入れろ」「否定をするな」「利用者と価値観を共有せよ」・・優等生の言葉だ。しかし、死にたいという利用者に「それもいい案ですね」と言えるのか?いって良いのか?テキストのままならそういうぞ。だめだろ。。普通・・では否定するか?否定しちゃいかんのだ。ねえ。読んでる人・・どうすればよいか?とくにこの例の場合「仕事を見つけて就労させ生活させる」というのが金科玉条のごとくなっている。で、そこにこの筆者と現場のスタッフは違和感を持ったわけだ。(おお、きちんと脳みそ使ってるではないか。物事に疑問を持つのは進歩の第一だ!)
これがね。まだ30代とか若ければまだ未来があり救える時間もある(数十年ね)
でも50歳。10年先があるかどうか。ましてや今までのブランクから社会にはいって仕事は飛躍が大きすぎる。どういう仕事斡旋するのか知らないけど、もし仕事をすこしでもさせたいのなら封筒貼りやシール貼り、造花作りみたいな内職だろうね。。でもハロワがそんな斡旋きいたことが無いな。
そう、行政が仕事をさせたいのは自分で生活させたいから。じゃないとこの例のように餓死してしまう。あたりまえだけどね。でも違う。それは生命を救うという物理的なやりかた。
もちろん人が死に逝くのを黙って見過ごすわけにはいかないさ。無理やりでも助けようとする。でも、無理やりってのは「利用者の行動を否定する行為」だよね
で、ほらその人の価値観を大切にしろ。とテキストにも書いてる。つまりその人が死を望んでいるなら「邪魔するな!!!!」
法令などでは「人間の魂」は書かれてない。宗教がかってくるけどちょい我慢して聞いて。
生命は生物化学的な生理反応の結果の状態。魂というのは精神だとか心だとかを併せ持ったものだ、古代エジプトでは前者をバー、後者をカーとよんで明確な区別があったし、日本では魂魄といいこれも生物化学的な生命と精神的なものを別けていた。キリスト教はもっとわかりやすい。騎士は「命は王に、魂は神に(名誉は我に」という。キリスト教が魂は人間だけが持つものという気持ちはわかるだろうか?カエルもサルも生命反応があり生きている。しかし魂という精神的なものは無いと考えてる(だから私の言う自殺は人間と他の生物の一線=魂のある証)となるわけ。いいだろこの考え方。
救ってほしいのはこの魂。つまりヒトとしての生きざまだとか価値観だとかいうものをひっくるめた「私」の中心」のようなものだ。だから、肉体的には飢えて死ぬ状況だったらもう命は助けなくていい、そのかわり魂を救うべき。ということ。
・・・
そうなんだよ。この場合ドクターキリコは安楽死させてくれない。彼の条件はあくまでも肉体的苦痛からの脱却としてであって精神的苦痛はだめなんだな。
もちろんだめだけど、そっと(白い水)安楽死の毒薬の事ね。をドアの横に置いてくれた方がよっぽど救われる。もちろんそこまでは無理だったら仏教でもキリスト教でも神道でも
魂の救済ができる人を派遣すべきと思う。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。