人間とヒト

この二つは同じではない。私は使い分けてる。ヒトは生物分類学上サルに似ている狭鼻類の一部の属であり、現在ではホモ・サピエンスをいう。人間は文化的なものをもった社会的生物の総称、だから宇宙人のバルタン星人やメフィラス星人はヒトではないが人間だから~人と呼ばれる。何も二足歩行でなくてもよい。
さて、あるネットの書き込みであったが認知症になった人(この場合の人はカタカナではなく漢字なのに注目)認知症は人間性が崩壊していく。つまり生物としてヒトであり通常ヒト=人間なのだが認知が進んでいった人はどこまで人間と呼べるのか?というテーマ。
宗教的に考えるとキリスト教は魂があるから最終的な認知であっても人間なのだろうが
宗教抜きで生活、社会レベルで考えると人間たりえるのだろうか?という意見。
難しい。が生死もいまではどの時点まで生きているか?という判断があいまいだ。
脳波でさえ、怪しい。
もどって、じゃあ、健康な脳みそだけを取り出し水槽に入れていたら?
私の考えではそれは人間といえるがヒトとはいえない。(究極のサイボーグだがサイモン教授あるいはジェィムスン教授のようにSFでは昔からあるケースだ)
あるいは自分の意識をマシンに移したら、あるいは感情があり自意識を持ったAIはどうなんだろう?
これもヒトではないが人間といえる。
つまり人間てのは脳(或いはそのようなもの)が健康であれば人間と定義される。逆に言えば脳の働きがおかしくなって人間の体面を保てなくなったら。・・ヒトではあるけど人間ではないとなる。
煎じ詰めれば自分は自分が人間であることを理解していれば人間だが、それがわからなくなってきたら人間とは言えなくなってくる。だから今の若い者は自分が人間ではなくなってくる老化と認知を今の老人以上に理解していて、そうなる前に自分で人間としての尊厳を保つために返命をしたいと考えてるとおもう。現場で見ている若手の医者の意見を聞きたい
あなたがこうなるとわかったらどうしたいか?


ところが法律はそこまで考えてない。人間としての尊厳はあくまでも生活レベルのことであって精神レベルの人間としての尊厳ではない。
でも難しいところであって「それ」が人間であるか人間でないかは決められない。
認知のすすんだ人が一時的に回復し自分の認知行為を理解できたら、どう思いどう願うかだ。


何というかな。。わからないけど今後は老後認知恐怖症とでもいうようなものが出てくるかもしれない。自分がそうなる可能性とその恐怖。なんせあと10年したら5人に一人が認知になるという。ガンよりも恐ろしい。ガンは生存率は上がってきたし死ぬことは原因は違っても確実に来る。恐怖があれば死への恐怖と苦痛だ。
だが認知への恐怖は自分が崩壊していく怖さだ。アイディンテティが崩壊していく。自分が自分ではなくなり消えていく恐怖。確かに多くの認知の人は優しい。世話をして心安らぐ人もいる。だけど自分がそうなる可能性はわからない、全く逆に攻撃的になるかもしれない。
それでも生きることを望むだろうか?慈悲という言葉がある。同じことを書いたかな?慈悲の短剣。戦場でケガをしとどめの為の短剣。肉体は慈悲を受けても精神は慈悲を受けられないのだろうか?
理論的には受けられるはずだ。なぜなら肉体と精神は表裏一体でどちらがなくても人間としてはなりたたない。しかし、目で見える肉体はわかりやすい。医者も安楽死もね
ドクターキリコでさえ肉体的な苦痛が対象だった。
私の考えは早すぎる?